園長月のお便り
  •   心にしみこむ
    冬の花

     私はカトリックの幼稚園で育ちました。
    小学校に入ってからは宗教にふれることもなく過ごしてきましたが、
    幼稚園の先生になりたいと思い学校を選ぶとき、
    ごく自然にカトリックの学校に行きたいと思いました。
    心の中で眠っていた神様が目を覚ましはじめたような感覚でした。
    学校では宗教の時間があったり、クリスマスのミサがあったり、
    シスターがいらっしゃったり、中には面倒だという友人もいましたが、
    私は何の違和感もなくむしろ懐かしい光景に感じたことを思い出します。
    確かに宗教の時間は退屈ではありましたが…。
    頭で理解する神様ではなく、幼児期に心に染み込んだ神様の存在は
    やはり大きかったのだと今になって思います。
     話は変りますが私が小さい頃、明治生まれの祖母は
    毎日食事の後片付けを自分の役割としていました。
    今のお母さま方には想像がつかないと思いますが、
    昔の炊飯器は窯内部の加工がされていませんので
    ご飯粒が沢山ついて残ってしまいます。
    (飯ごうでご飯をたくようなものでしょうか)
    祖母は後片付けの時、いつもお釜に水を入れくっついて残った
    ご飯を釜からはがし、それを手ですくって食べていました。
    それがとても美味しそうに見えた私は
    「私も食べたい!」と言って食べてみましたが、
    冷たくふやけたごはんは決して美味しいものではありませんでした。
    『どうして美味しくないのに毎日食べるのか』と聞いた時
    『一粒の米も捨ててはいけないこと』を教えられました。
    毎日目にしていたこの祖母の姿は私の中で事あるごとによみがえってきます。
    そのためか、食べきれない時に残すことはあっても、
    ご飯粒を茶碗にくっつけたまま終わりにすることにとても罪悪感があります。
    (だいぶ矛盾していますけど…)主人は私が残したものを
    「もったいないと言って食べ」私は主人がもう取れないと言って
    残そうとするご飯粒を「もったいない」と集め「はい食べて」と渡す。
    「どっちがもったいないんだ?」「どっちも!」
    と笑い合うこともしばしばで、お互い食べ物を大切にする気持ちはあるけれど、
    育った過程でしみこんだものが違うんだな~と感じます。
     子どもの頃に経験したこと、感じたこと、教えられたこと、
    というのは本人が意識していなくても確実にその人にしみ込んでいるのでしょう。
     さて今年もクリスマスが近づいてきました。
    毎年この時期になると、今年はどんな思いで待降節を
    過ごしたらよいだろうかと考え始めます。
    (考えようとしている時点でもうダメダメなのだと思いますが…)
     今年は子どもたちと食べ物のない方たちのことを考えて過ごしますので、
    私も、食べものを大事に、作りすぎない、買いすぎない、
    最後まで食べきる、捨てない、ことを意識して過ごしたいと思います。
    子どもたちも、自分以外の人たちに心を向け、
    自分にできることを考えながら過ごしていきます。
    『隣人を愛する』 難しい言葉は忘れてしまったとしても、
    この経験が一人ひとりの心の中に深くしみ込み、
    優しさの根となっていきますように…。

                            園長 玉井 史恵

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