園長月のお便り
  • 雪うさぎ
    元日から石川県で地震が発生し、
    大きな不安や悲しみに包まれました。
    楽しみにしていたお正月、
    帰省中に亡くなられた方もおられるという
    報道もありました。帰省さえしていなければ…。
    という後悔の念を抱いている方もおられることでしょう。
    震災によって辛い思いをされている方々の重荷が少しでも
    和らぎますようにお祈りいたします。
    私はいろいろな痛ましい事故や事件が起きるたび、
    祖母の言葉を思い出します。
    明治生まれの祖母はいつも
    「家を出たら何が起こるかわからない、
    ここで交わした言葉が最後になるかもしれない。
    だから『 機嫌よく笑顔で送りだしなさい 』
    『 笑顔で家を出なさい 』といつも家族に言っていました。
    子どもの頃はその言葉を聞いていても、
    言葉の意味を深く理解しようなどと思いませんでしたので、
    母と喧嘩をして口を利かずに家を出ることもありました。
    (喧嘩の理由は覚えていないので、
    些細なことだったと思いますが)
    もちろん喧嘩をしているので、
    母も「いってらっしゃい」とは言ってくれません。
    プリプリ、モヤモヤしながら学校に向かった気持ちは覚えています。
    結婚して親になり子育てがはじまると、
    叱ったり、親子喧嘩をしたりすることも数知れず。
    そんなイライラとした気持ちで、
    よく顔も見ずに送り出してしまった後、
    いつも祖母の言葉を思い出しては
    「このまま二度と会えなかったらどうしよう」
    という不安に襲われ、
    『笑顔で見送らなければ…』と反省し、
    完璧にはできていませんでしたが、
    叱った直後も意識して明るく声をかけて
    見送るようにしてきました。
    こうして自分が親になって初めて祖母の
    言葉の重みを実感することができた私です。
    毎朝、昇降口で子どもたちを迎えていると、
    『あれ?今朝はお家で何かあったのかな?』
    と思うお子さんが時々います。
    「どうしたの?」と聞くと「叱られた」
    と話してくれるお子さんもいます。
    どうして?と聞くと「ごはん食べなかったから」
    「ゲームやってたから」「早く起きなかったから」
    「はやく着替えなかったから」とほとんどの子どもたちが
    叱られた理由を理解していることに驚かされます。
    朝の様子を担任に伝えると、時によっては半日くらい、
    朝の気持ちを引きずっているお子さんもいるそうです。
    叱ったつもりはなくても忙しい朝、
    ついつい小言が多くなることもあるでしょう。
    そんな時は私の祖母の言葉を思い出していただけたらと思います。
    小言を言った後も、叱った後も、
    どんな時も 顔を見て笑顔で「いってらっしゃい」と送りだす。
    簡単で当たり前のことだけれど、とても大切にしたいこと。
    皆さんはやっていますか?
     
    園長 玉井史恵  

  • コスモス2
    この夏も甲子園での高校野球、世界陸上
    など様々な競技がTVで放映されており
    幼稚園でもスポーツの好きな先生方は
    勝った負けたから、選手や監督の話などで
    盛り上がっています。
    私はスポーツにはほとんど興味がないので
    まったく話にはついていかれず
    先生方が楽しそうに話しているのを聞いています。
    聞いてはいても頭に残ることはほとんどないのですが
    (興味がないってそんなものです)
    好きなことを話す時は皆とても
    生き生きと楽しそうで、
    その様子を見ているのもよい時間です。
     私の娘は物心ついた時から魚が大好きで、
    水族館に行ったら開館から閉館までいるような
    子どもでした。なんでこんなに好きになったのか
    全くわかりませんが、好きとはそういうものなのでしょう。
    大きくなったらイルカショーのお姉さんになりたい
    とうのが長年の夢でしたが、運動がとても苦手な娘が
    イルカショーのお姉さんになれることはなく、
    その夢はかないませんでしたが、
    生き物の勉強を選び、それに関係した仕事についています。
     また、私の甥っ子はマリア幼稚園にいたのですが
    (身内の話ばかりで恐縮です)
    卒園式の練習でまっすぐ後ろを向いて
    (保護者の方を向いて)歌を歌えませんでした。
    いつも体は斜め45度。誰に何と言われてもできず…。
    当日も同じでした。
    歌は大好きだけど恥ずかしさには勝てなかったのです。
    その甥っ子が今は音大生となり、
    人前で歌ったり演奏したりしています。
    好きなことが苦手を克服したのです。
    夏休み中希望保育に来ていた子ども達が、
    エンジェル教室で使う三つ編みの紐を編んでくれました。
    それはそれは丁寧に編まれていて驚きました。
    コツコツと細かいことをするのが好きな子が
    いてくれたからです。
    好きなことには惜しみなく力を注げるものなのだと思います。
     瀬戸内寂聴さんが「好きなことがその人の才能です」
    とおっしゃっていましたが
    子どもたちの姿をみていると本当にその通りだと思います。
    好きなことには惜しみなく力を注げるので
    好きなことを伸ばしていくことはとても大きな力になるのです。
    2学期は運動会やクリスマス会など大きな行事があります。
    親としてはどれも頑張って良い姿を見せて欲しいと
    思わずにはいられませんね。
    でも行事の時に見える姿が全てではありません。
    好きなことが違うように得意なことも苦手なことも違います。
    絵を描いたり、物を作ったりすることが好きな子は
    3学期の作品展の方が楽しくて、
    自分の力を存分に発揮できるでしょう。
    好きなことが1人ひとり違うように、
    自分の力を発揮できる場所も1人ひとり違います。
    私たちも1人ひとりのお子さんの力が発揮できる
    場所を見つけながら過ごしていきます。
    保護者の皆様にも同じ気持ちで
    過ごしていただけたら嬉しく思います。

                    園長 玉井史恵   

  • 冬の花
    今年のマリア様の祝いの時に、
    濱田神父様がこんな話を子どもたちにしてくださいました。
    マリア様は誰のお母さんか知ってる?
    との問いに「イエス様のお母さん!」
    と答えたのは年長さん。
    ここから先は短く話をまとめます。
    そうマリア様はイエス様のお母さんとして
    神様から選ばれました。
    マリア様はとても良い人だったので、
    神様の子どもとして生れる
    イエス様のお母さんとして選ばれました。
    でもマリア様の人生はよいことばかり
    だったと思いますか?よいことどころか、
    大変なことの方が多い日々でした。
    イエス様を生んだのは病院のベットではなく、
    馬小屋でしたし、その後も殺されそうになったり、
    迫害されたり、
    最後は我が子が十字架にかけられ殺される姿を
    見届けなければなりませんでした。
    マリア様のように、神様からもらったお仕事は
    案外大変なことが多いのだよ。
    だからもし皆さんが大変だなと思うことに出会ったら、
    神様はどんなお仕事を頼まれたのだろうと
    考えてみてください。と。
    マリア様がどんな困難にも負けずに
    イエス様を育てたと思っていましたが、
    初めに神様がどんな困難にも負けない
    マリア様を選ばれたのだと思いました。
    そして神様がマリア様を選ばれたように、
    私たちも、
    『あなたにこの子を任せるよ、
    あなただから任せたのだよ、あなたなら必ず大丈夫』
    というメッセージと共に神様から選ばれ、
    親としての仕事を仰せつかっているのだと感じました。
    親としての仕事は大変です。
    自分の時間を割いて子どものために
    使わなくてはいけないし、
    子どもが小さいうちは自分の時間が
    欲しいとよく思ったものです。
    また子育ては思い通りにはいかないことだらけ、
    心配することも次々とでてきます。
    親として見守ることしかできない
    辛さや苦しみも経験してきました。
    それでも私の人生に沢山の喜びを与えてくれたのも
    我が子でした。
    私の娘は30歳を超えましたが、
    まだまだ親としての心配は尽きません。
    私自身今でも親に心配されています。
    皆さんもきっと同じでしょう。
    親としての仕事には終わりがないのです。
    以前ある神父様が、
    恵(めぐみ)を多くもらった人ほど
    神様に沢山使われて苦労も多いんだよ。
    恵って大変なんだよ。と話されました。
    マリア様の祈りも 
    恵あふれる聖マリア……
    から始まります。
    困難にあったときこそ神様の恵 
    とはなかなか思えませんが、
    これから続く長い子育ての中で壁にぶつかった時に 
    この 『神様のお仕事』の話を
    思い出していただけたらいいな~
    と思いながら書いています。
    私にしかできない神様のお仕事 
    私だからできる神様のお仕事 
    がんばりましょう!    

                  園長 玉井史恵   

  •  5月はマリア様の月です。
    昨年のマリア様の祝いの時には、
    子ども達にこんな話をしました。
    今日はマリア様のために沢山の花を
    持ってきてくれましたね。
    マリア様もとても喜んでくださっていますね。
    今ここにある花はとてもきれいだけれど、
    時間がたつと枯れてしまいますね。
    枯れてしまったらどうしましょう。
    「また持ってくる」「枯れないように水を入れてあげる」
    等々意見が出ました。
    ここにある花もとてもいいけれど、
    枯れない花もあるの「え~っ!作った花?」
    「折り紙の花?」それはね、心の中にさいた花なの
    「…?」どんな時に心に花が咲くと思う?
    「う~ん…」それはね、
    お友だちが泣いていた時にどうしたのと
    優しく声をかけてあげた時、
    一緒にやろうと仲良くできた時、
    ありがとうと言えた時、ごめんねと言えた時、
    皆が周りの人のために優しい心をつかった時、
    心の中に花がさいて、その花はずっと枯れないで咲いているの。
    1人ひとりの心の中に花が沢山咲いたら、
    心の中にいるマリア様はいつも花を見ていられるね。
    そうしたらとっても嬉しいって
    喜んでくださると思うの。
    だから5月のマリア様の月には心の中に
    沢山の花を咲かせましょうね。と。
     先日こんなことがありました。
    朝の門で『シクシク…』している妹と、
    一刻も早く部屋に行きたい兄。
    門でお母さんや先生が妹も一緒に連れていってと頼んでも、
    毎日先に行ってしまう兄…。
    (早く行きたい気持ちはよくわかります)
    ちょうど先週、その子が職員室にお祈りシールをもらいにきたので、
    『朝、妹と一緒に部屋まで行ってあげてくれないか』
    と頼んだところ、「うーん、考えてみる」と
    あまり乗り気でない返事が返ってきました。
    そこで「頭で考えないで、心で考えてみて」
    と伝えました。「わかった」と言って出ていき、
    ほどなくして戻ってくると、
    職員室の入り口でひょっこり顔を出して
    「考えた!」と一言だけ言って去っていきました。
    どう考えたのだろうと聞きたい気持ちを
    抑え翌日の朝を待ちました。
     迎えた翌朝、どんな様子だったか
    門の先生に聞いてみると、
    妹と手をつないで年少の部屋まで
    一緒に行ってくれたとのこと。
    どのタイミングで声をかけようかと思っていると、
    ちょうど当番の仕事で職員室にやってきました。
    「心で考えて、妹のために頑張ってくれたんだね。
    ありがとう」というと「面倒くさいけどね!」と
    一言残して職員室を後にしました。
    きっとそれが本音でしょう。
    でも早く行きたい気持ちと妹の気持ちの両方を考え、
    大事にした方がよいと思ったことを選んで
    行動できたことは本当にすごいことです。
    まさに心に花が咲いた時だったと思います。
     私は心で考えてと言っただけなのですが、
    それが通じたというのは彼の心が育っていたということ。
    本当に嬉しい場面に出会わせてもらえました。
     今年もマリア様の月がやってきます。
    子どもたちの素直な心に負けないように、
    私も心の花をたくさん咲かせていきたいと思います。
                  園長 玉井史恵 

  • thumb-350-674742
    この間廊下を歩いていた時、
    私の顔をみるといつも静かに近寄ってきて
    自分の服を手渡す(手伝ってと無言のお願いをする)年少さん。
    この日は近づいても私に気が付かないほど
    真剣に自分の脱いだ遊び着を黙々と畳んでいました。
    しばらく見ていましたがそれでも気づかず
    袋を入れ終わるまで一人でやりきりました。
    ここまでくるのに約1年、
    ようやく自分の力でできる喜びを感じるまでに
    費やした努力は担任が一番知っていることでしょう。
    私の横には嬉しそうに見守る担任の姿がありました。
     友達とはいいけれど、大人と話すことがとても苦手で、
    遊んでいるときは話してくれるのに、
    面と向かうと何も言えず黙って目で訴え、
    私たちの声がげに涙目でうなずくことがやっとだった年長さん。
    この間初めて「お箸忘れたから貸してください」と
    私の目を見て言葉を交わしてくれました。
    この日まで恥ずかしいという気持ちと
    どれほど葛藤しながら過ごしてきたことでしょう。
    この一言に込められた思いや、努力を想像した時、
    胸があつくなりました。
     私に用があって(ブロックで作ったものを見せに)
    来てくれた年長さん。
    来客中だった様子を見て何も言わずに黙って部屋に帰り、
    時間が経ってから「もう入ってもいい?」と
    聞いてから職員室に入ってきました。
    状況を見て、今は園長先生だめなんだなと判断し、
    行動できるなんてすごいことです!
     また先日、延長保育に上がっていく時
    珍しく泣いていた年長の女の子。
    「どうしたの」と声をかけ手を広げると
    黙って私の膝の上に乗りしばし涙…。
    その姿を見た友達が近寄ってきて
    理由を聞くわけでもなく静かに「一緒に行こう」と
    手を差し伸べてくれました。
    泣いていた女の子はその手を取り
    一緒に階段をあがっていきました。
    言葉ではなく差し伸べられた手から、
    とても温かい心を感じたのは
    私もその女の子も同じだったことでしょう。
     このように日々の生活の中で
    嬉しいできごとに出会えた時の幸せな気持ちは、
    後で思い出しても心の中が温かくなります。
    そして一人ひとりの行動の裏にある気持ちを考えた時、
    お金で手に入れた物からは決して得ることのできない
    大きな幸せを感じます。 
    『見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ』 
    金子みすずさんは昼間の星は目に見えない。
    でもそこに存在している大切なものと詩にしています。
    『大切なものは目に見えない。かんじんなことは、
    心の目でみないとみえないんだよ』(星の王子さまより)
     目に見えて育った姿の中にある『お子さんの心』
    皆さんには見えていますか?
    これからも子どもたちの心の育ちを
    喜びあいながら一緒に過ごして参りましょう。
                         園長 玉井史恵      

  •   心にしみこむ
    冬の花

     私はカトリックの幼稚園で育ちました。
    小学校に入ってからは宗教にふれることもなく過ごしてきましたが、
    幼稚園の先生になりたいと思い学校を選ぶとき、
    ごく自然にカトリックの学校に行きたいと思いました。
    心の中で眠っていた神様が目を覚ましはじめたような感覚でした。
    学校では宗教の時間があったり、クリスマスのミサがあったり、
    シスターがいらっしゃったり、中には面倒だという友人もいましたが、
    私は何の違和感もなくむしろ懐かしい光景に感じたことを思い出します。
    確かに宗教の時間は退屈ではありましたが…。
    頭で理解する神様ではなく、幼児期に心に染み込んだ神様の存在は
    やはり大きかったのだと今になって思います。
     話は変りますが私が小さい頃、明治生まれの祖母は
    毎日食事の後片付けを自分の役割としていました。
    今のお母さま方には想像がつかないと思いますが、
    昔の炊飯器は窯内部の加工がされていませんので
    ご飯粒が沢山ついて残ってしまいます。
    (飯ごうでご飯をたくようなものでしょうか)
    祖母は後片付けの時、いつもお釜に水を入れくっついて残った
    ご飯を釜からはがし、それを手ですくって食べていました。
    それがとても美味しそうに見えた私は
    「私も食べたい!」と言って食べてみましたが、
    冷たくふやけたごはんは決して美味しいものではありませんでした。
    『どうして美味しくないのに毎日食べるのか』と聞いた時
    『一粒の米も捨ててはいけないこと』を教えられました。
    毎日目にしていたこの祖母の姿は私の中で事あるごとによみがえってきます。
    そのためか、食べきれない時に残すことはあっても、
    ご飯粒を茶碗にくっつけたまま終わりにすることにとても罪悪感があります。
    (だいぶ矛盾していますけど…)主人は私が残したものを
    「もったいないと言って食べ」私は主人がもう取れないと言って
    残そうとするご飯粒を「もったいない」と集め「はい食べて」と渡す。
    「どっちがもったいないんだ?」「どっちも!」
    と笑い合うこともしばしばで、お互い食べ物を大切にする気持ちはあるけれど、
    育った過程でしみこんだものが違うんだな~と感じます。
     子どもの頃に経験したこと、感じたこと、教えられたこと、
    というのは本人が意識していなくても確実にその人にしみ込んでいるのでしょう。
     さて今年もクリスマスが近づいてきました。
    毎年この時期になると、今年はどんな思いで待降節を
    過ごしたらよいだろうかと考え始めます。
    (考えようとしている時点でもうダメダメなのだと思いますが…)
     今年は子どもたちと食べ物のない方たちのことを考えて過ごしますので、
    私も、食べものを大事に、作りすぎない、買いすぎない、
    最後まで食べきる、捨てない、ことを意識して過ごしたいと思います。
    子どもたちも、自分以外の人たちに心を向け、
    自分にできることを考えながら過ごしていきます。
    『隣人を愛する』 難しい言葉は忘れてしまったとしても、
    この経験が一人ひとりの心の中に深くしみ込み、
    優しさの根となっていきますように…。

                            園長 玉井 史恵

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    親子の時間
               園長 玉井 史恵

    先日NHKの 『チコちゃんに叱られる』 
    で 親子が一緒に過ごせる時間についての
    放送をしていました。
    数年前にも放送していたので、
    ご覧になった方も多いかもしれませんが…。
    親が子と生涯で一緒に過ごせる時間は 
    母親で7年6か月 父親で3年4か月だそうです。 
    そのうち年少で入園するまでに18%の時間が終わり、
    幼稚園卒園時には32%、小学校卒業時には55%、
    高校を卒業して親元を離れると、
    70%の時間が終わっているそうですから、
    その時点で残りは30%ということになります。
    私自身のことを振り返ってみると、
    幼稚園に入るまではほぼ1日中一緒に
    過ごしていましたが、
    幼稚園に入ると、降園してから寝るまでの数時間、
    小学校に入ってからは親より友達と
    過ごす時間を求めるようになり、
    親子でべったり一緒にいる時間は
    どんどん減っていきました。
    そして私がフルタイムで仕事を始めると、
    平日は食事と入浴の時間くらいしか
    一緒に過ごす時間がありませんでした。
    本当にテレビで言っていた通りです。
    子育て中、子どもは大好きだけれど、
    たまには一人で好きなことをしたいと思ったこともしばしば。
    でも子どもが巣立った後は、
    子どもと過ごせる時間のありがたさを
    ひしひしと感じるように…。本当に身勝手なものです。
    私の娘は大学から東京で一人暮らし。
    その後結婚して現在は神奈川県住まい。
    それでも頻繁に行ったり来たり1年に
    何度も会えることが当たり前でした。
    そんな当たり前の日々が、
    コロナウイルスの出現で一変しました。
    会いたいけれどいろいろなことを考えると
    帰ってきていいよと言えない。
    娘も帰りたいけれど帰れない。
    そんな日々が続きました。
    今年の夏は3年ぶりに娘が夫婦で帰省をし、
    (検査を受けて)久しぶりの家族団らんができました。
    娘が今ハマっている宝塚のDVDを
    夜中まで一緒に見て盛り上がり、
    仕事の話をしたり、
    ネットをみながら欲しい物の相談をしたり、
    丸2日間楽しい母と子の時間を過ごしました。
    娘と父親も仲がよいのですが、
    母娘の話題にはついてこられず…。
    父親との時間の短さをこれまた実感しました。
    チコちゃんに叱られるではもう一つ、
    子が親と過ごせる時間についても触れていました。
    私が子なら、自分の親と過ごせる時間は、
    1年で24時間 まる1日程度(一緒に住んでいない親子)
    だそうです。
    親が生きる残り年数(平均余命)が10年なら10日、
    20年なら20日ということですが、
    コロナ禍になり、
    この日数すら危ういのではないかと思ってしまいます。 
    私に残された娘との時間は? 両親との時間は?
    コロナ禍にあって、また今度、そのうちに、
    ができないことを経験しました。
    どんなに願っても今が永遠に続くことはありません。
    巻き戻すことのできない時間、
    後悔のないように、
    一緒に居られる時間を慈しんで過ごしたいと思った夏でした。
    皆さんはお子さんとの限りある時間を
    どのように過ごしたいですか…。

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    大丈夫 だいじょうぶ
                 園長 玉井史恵
                                   
     2022年5月、病気療養中だった私たちにとって 
    とても大切な先生が天に召されました。
    マリア幼稚園が大好きで、闘病中も
    『今日はクリスマス会だね』
    『今日は卒園式だ』『みんな頑張っているかな』
    と幼稚園のことばかり気にかけておられたそうです。
     私たちは毎朝 朝礼で当番の先生が聖書の福音を読み、
    祈りを捧げてから1日を始めていますが、
    訃報が届いてから毎朝の祈りの中で、
    その先生との思い出が語られるようになりました。 
    思い出されるのは彼女から掛けて頂いた言葉や、
    子どもへ対する接し方や、
    保育に対する思いや、夫婦げんかの愚痴話まで…。
    はじめは悲しくて悲しくて…言葉につまりながら…
    毎日涙の朝礼でした。
    私も含め先生方は思い出を語る中で、
    彼女から沢山のものをいただいていたことに気づかされ、
    悲しみでいっぱいの祈りから、
    感謝の祈りへと変わっていきました。
     三浦綾子さんの本の中に書かれていた
    『わたしたちが一生を終えてこの世に残るものは、
      生涯をかけて集めたものではなく、
      生涯をかけて与えたものである』
    という言葉を思い出しました。
    まさにこの言葉のとおり、
    彼女が私たちに与えてくださった愛が、
    先生方一人ひとりの心の中で
    生きていることを実感しました。
    そんな中皆に共通していたのは、
    どんな時も、誰にでも「大丈夫、大丈夫」と
    言っておられた言葉でした。
    ご自宅で療養中も最後まで笑顔を絶やさなかったと伺いました。
    皆に心配をかけないよう「大丈夫、大丈夫」
    をご自身も最後の時まで貫き通していたお姿が目に浮かびます。
    先生が亡くなってから、
    今までお聖堂にあまり姿を見せなかった子が
    毎日祈りにくるようになりました。
    「先生喜んでくれるかな?」と
    一生懸命摘んでくれたシロツメ草。
    悲しむお母さんに
    「先生はいつも心の中にいてくれるから大丈夫だよ」と
    声を掛けてくれたお子さん。
    子どもたちの中にも先生の愛は生きていました。
    もっともっと幼稚園で子どもたちの笑顔をみていたかったはず…
    もっともっと皆とたわいもない話で笑いたかったはず…。
    彼女から与えてもらったことを、
    残された私たちが周りの人に分け与えていくことで、
    先生が私たちと共に生きてくださることを信じて、
    彼女の分まで皆で頑張っていきます。
    訃報を受けてから、年長の子どもたちが歌ってくれた 
    ~マリア様の心~ を動画に撮って 
    子どもたちの歌で先生を天国へお送りすることができました。
    「私は大丈夫、私の家族のために祈ってね」 
    先生から託されたの最後の願いでした。
    皆でその願いを忘れずに祈り続けます。
    先生への感謝を込めて…。

                                  

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    みまもる  
                         園長 玉井史恵
     私の娘はこのマリア幼稚園に通っていました。
    お昼寝が嫌いで、昼寝中におしゃべりしすぎては、
    「今日ね~先生に廊下でおしゃべりしてきなさいって言われたの~」
    (今はそういう指導はしません…ご心配なく)
    「また寝なかったの?」「そう~!」
    とケロリと言ってのけるほど、マイペース。
    そんなことがあっても幼稚園が大好きで
    一度も嫌だと泣いたことがありませんでした。
    小学校入学後も学校が嫌だと言うこともなく
    喜んで通っていました。
    そんな娘が小学校5年生の時に
    学校にいくのが辛くなりました。
    それは5年生の時、クラスの目標が
    ドッジボールでのクラス作りになったことから
    はじまりました。
    はじめのうちはまだ楽しいと思えていたようですが、
    学校外の大会にクラスとして出るようになり、
    勝つことが全てのクラス作りの中、
    「ドッジボールがうまくできない、
    朝も、休み時間も、昼休みも練習しないといけない、
    毎日ドッジボールばかりで学校が楽しくない。」
    そんなことを言い出しました。
    「ドッジボールなんてできなくたっていいじゃない、
    休み時間だって好きなことをすればいいじゃない」と言っても、
    練習にいかないと責められる…と。
    子どもの話だけではなんともわからないと思い、
    解決の道を探りましたが良い道はみつからず
    切ない日々が続きました。
    そして6年生になった時
    「そんなに嫌なら学校に行かなくてもいい」と娘に言いました。
    (今思えば私が楽になりたかったのかもしれません…)
    しかし返ってきた言葉は
    「そんなことをしたら、負けたことになるから学校には行く!」と。
    とても驚きました。
    相変わらずドッジボールでの毎日に疲弊しながらも、
    なんとか卒業の日を迎えることができました。
    卒業式の日、音楽の先生や保健の先生に
    がんばったねと声を掛けていただいた時、
    こうして影で支えてくださっている先生が
    いてくださったお陰で娘は学校に通うことができたのだと、
    感謝の気持ちでいっぱいになりました。
    今でも『あの時娘が学校に行かないと言っていたら、
    どうなっていたのだろうか』と思う時があります。
    親として言ってよい言葉だったのかどうかもわかりません。
    一番辛かった時神父様から
    「神様は乗り越えられない試練は与えない」
    という話をお聞きしました。
    「今は試練の意味がわからないかもしれないが、
    必ずわかる時が来る。神様は困難を取り除くのではなく、
    乗り越える力を与えてくださる。
    だから乗り越えられるようにと祈りなさい」と
    話してくださった言葉が
    私たち親子の心の支えになりました。
    そしてその時ほど神様の存在を近くに感じたことはありませんでした。
    今もその頃のことを思いだすと涙が出ます…。
    でも、その出来事があってから、
    私の考え方は大きく変化しました。
    今になれば、あの試練は娘のためではなく、
    私のためだったのだと思えてなりません。
    今はまだ毎日泣いて登園しているお子さんもいます。
    『なぜこんなに…』『いつまで…』と
    切ない気持ちで送りだされている方もいらっしゃると思います。
    親は子どもの力を信じて見守ることしかできない時もあります。
    見守ることの辛さもよくわかります。
    辛いときはどうぞ話にきてください。
    子どもたちはこれから先様々なことにぶつかっていくことでしょう。
    そんな時は困難を乗り越えられるよう
    神様に祈り求めながら、
    強い心と優しい眼差しで、
    子どもたちを見守っていきましょう。

  • 桜と土手
    きずな           
                     園長 玉井史恵
     
    3月、卒園間近の子どもたちが「私は○○小学校」
    「ぼくは○○小学校」「私も同じ、一緒だね!」
    と楽しそうに話していましたが、
    一人の女の子が「私はお引越しをするから、
    みんなと同じ学校に行かれない…」と寂しそうに言いました。
    すると男の子が「いつもマリア様が一緒だから大丈夫だよ」と言い、
    それを聞いた女の子は「そうだね」とにっこり。
    なんて素敵な会話でしょう。
    わたしたちが、毎日を充実させて
    いつくしみにあふれた日々を生きるには
    「自分自身との絆」
    「他の人との絆」
    「人間を超える存在との絆」
    が必要だと言われたことがありますが、
    この子どもたちの中にはすでに
    この3つの絆ができていることを感じました。
     さて今年は45名の新入園児さんを迎えて
    新年度をスタートすることができました。
    新しいクラスのお友だちとの出会い、
    新しい先生との出会い、
    はじめて幼稚園に入ったこどもたちは神様との出会い、
    それぞれの出会いがまた新しい絆につながっていきます。
     しかしすぐに新しい環境に慣れるお子さんもいれば、
    環境の変化をすぐには受入れられないお子さんもいます。
    適応していく時間は一人ひとり違います。
     親とすれば早く慣れてくれた方が安心ですが、
    そうそう思い通りにならないのが、現実です。
     以前、未満児から年少に進級した一人の子どもは、
    毎日毎日大泣きで、何もしようとしませんでした。
    担任はどうしたら泣かずにいてくれるのか必死でした。
    いろいろ手を尽くし、言葉を尽くしましたがうまくいきません。
    担任以外の先生が一緒に過ごせば落ち着きますが、
    担任の所に戻るとまた大泣き…
    でも担任がその子の泣きたい気持ちを受け入れ、
    泣いても大丈夫だと双方が思った時、
    その子は泣かなくなり以前のように
    何でも一人でやるようになりました。
    その子は他の誰とでもなく、
    担任と絆を結びたかったのだと思います。
    このように、子どもたちも新しい人たちと
    心を通わすために必死なのです。
    そして、そんな子どもたちの姿から 
    絆は子どもたちの心を強いものにし、
    すべての原動力につながっていることを実感させられます。
     ですから、あせらず、人と比べず、
    一人ひとりの成長の時間をじっくり待ちましょう。
    そして1年を終えた時
    また素晴らしい絆でむすばれたことが実感できますように。
     今年度もよろしくお願いいたします。

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