2017.06.01
イエス様のみ心 園長 湯本 美奈子
すがすがしく気持ちの良い気候から、急に暑くなったり
じめじめとした梅雨の季節へと向かってゆきます。
入園から2ヶ月、疲れも出てきて調子が出なかったり、登園を渋りがちな時期ですが、
休息を充分にとりながら様子を見ていってください。
さて、5月は『聖母月』として私たちのお母さんであるマリア様を敬愛し、
共に神様に祈っていただく月としてご紹介しましたが、
6月は『聖心(みこころ)の月』として、神様がどれほど私たちを愛してくださっているかを
再確認し、御旨(みむね)に倣う月として奨励しています。
下にマタイ福音書の『人のあやまちをゆるせ』の箇所を載せました。
1デナリというのは当時の1日分の賃金で、6,000デナリが1タラント。
一日の賃金が6,000円だとすると、主人が免じてやった1万タラントというのは
3,600億円!(実際一生かけても返せないほどの額ということですね。)
しもべが許さなかった同僚の負債は100デナリですから、比べようもありません。
感謝も思いやりもないしもべを、主人が怒って拷問係に引き渡したのは無理もないというか、
当然というか同情の余地もありません。けれども、そう思っている私は、
実際同情の余地もないしもべと同じだということを、つい忘れてしまいがちです。
ヨハネ福音書には、姦通の現場で捕まった女の罪について書かれています。
ファリサイ派の人々がイエスを試みて「モーセは律法で(姦通の罪を犯した)
このような女は石を投げて殺せと命じています。あなたはどう考えますか?」
と聞きます。するとイエス様は「あなた方のうち、罪のない者が、
まずこの女に石を投げなさい。」と言われます。
これを聞いた年長者から一人去り二人去り、遂には誰もいなくなります。
そしてイエス様は「私もあなたを罪に定めない。これからはもう罪を犯してはならない。」
と言われるのです。
私は姦通の罪も犯さず、借金の取り立てもしていませんが、罪がないわけではありません。
嘘もつくし、ねたんだり腹を立てたり怠けたり…内緒で自分だけ美味しいものも食べるし、
大きい方や良いものを先に取ったり・・・まぁ、小さい人間なんですよ。(泣)
裁判沙汰になるような罪は犯さなくても、罪の意識もない私の、
ちょっとした言動で傷ついた人もいると思います。
傷つき方も感じ方も人それぞれですから、傷ついた人にとって私の罪は大罪です。
けれども自分の罪を認め、罰を受ける事を覚悟し、心砕かれた者を7の70倍までも
(何度でも)赦される方がイエス様です。
子ども達といっしょに祈る裏ページ『主の祈り』の
「私たちの罪をおゆるしください。私たちも人をゆるします」
の箇所をかみしめながら、気付かないうちに罪を犯している自分を反省し、
謙遜さと思い遣りを忘れないで過ごしたいものです。
人の過ちを許せ マタイによる福音18章21節まで
その時、ペトロはイエスに近寄って、「主よ、兄弟が私に対して罪を犯したならば、何回までゆるしたらよいのでしょうか。7回までですか?」と尋ねた。イエスは答えられた。「私はあなたに言う。7回どころか7の70倍までもと。それで、天の国は次のようにたとえられる。一人の王がしもべたちと貸借の決済をつけようとした。決算が始まると、1万タラントの負債がある者が王の前に連れ出された。しかし、返すことができなかったので、主人は、その人自身と、その妻、子、および持ち物全部を売って負債を返すように命じた。このしもべはひれ伏して、『どうぞ、もうしばらくお待ちください。きっと全部お返しします』と哀願した。そこで、主人は哀れに思って、彼をゆるし、借金を免じてやった。ところがこのしもべは外に出ると、自分に百デナリの負債のある一人の同僚に出会った。彼はその同僚ののど元を締め付け、『借金を返せ』と言った。この同僚はひれ伏して、『もうしばらく待ってくれ。返すから』としきりに頼んだ。しかし彼は承知せず、かえってその同僚を引っ張っていき、負債を返すまでといって牢屋に入れた。この一部始終を見ていた同僚たちはひどく心を痛め、主人の前に出てすべてを告げた。そこで、主人は彼を呼びつけ、『ふとどきなしもべだ。私はおまえが頼んだとき、負債を免じてやった。私がお前をあわれんだように、おまえもあの仲間をあわれむべきではなかったか』と言い、怒って、彼が負債を全部返すまでといって、拷問係に引き渡した。私の天の父も、もしあなたたち一人ひとりが、自分の兄弟を心からゆるさないならば、あなたたちに同じようにするであろう」。