園長月のお便り
  • ひまわり
    神様の愛                         園長 湯本 美奈子
     先日の親子遠足は絶好のお天気に恵まれ、妙高高原の初夏の空気をいっぱい吸いながら
    親子で遊んだりオリエンテーリングをしたり…。他にも一緒に作ったパンや
    昼食バイキング等『母の日』のような、とても楽しい一日になりましたね。
    1日中ずっと子どもたちの笑顔が見られ、私もその様子を見ているだけで嬉しかったです。
    これからも母として教師として、この子どもたちの笑顔を支え続ける存在でありたいものです。

     さて、6月は『聖心(みこころ)の月』としてイエス様のみこころに倣い、
    父である神様に心を向ける月としています。イエス様は父である神を遠いものではなく、
    もっとも近しい『アッバ』ということばで呼ばれました。
    アッバは子どもたちが『おとうちゃん!』と愛と親しみを込めて求める呼び方です。 
    私を思う『お父ちゃんの愛』とは?
     聖書の中に『放蕩息子(ほうとうむすこ)』の例えで、神の愛について書かれています。
    ここで書かれている父の愛が『神の愛』そのものです。どうでしょうか・・・?
    私はいつもこの箇所を読むたびに「そんなばかな!半分財産を分けてもらった上、
    放蕩の限りを尽くして一文無しになった弟が悪いんじゃないか。
    それなのに悪かったと謝れば許してもらえるなんて、
    それじゃあ真面目に働いていた兄が気の毒だ!この父親は弟のほうが可愛かったんだ!」
    とか「兄には友だちとの祝宴のために子やぎ一頭もあげなかったの
    に散々迷惑をかけた弟が帰ってきたら太った子牛を料理するなんて、
    今後この兄弟は絶対うまくやっていけないな!」なんて思っていました。
    どうしても弟のほうが『お得』だと思えたのです。
     でもある時私自身がある失敗をして、すごく自己嫌悪で泣きたいくらいだった時、
    同じ箇所を読みました。その時、はじめて目が開かれたのです。 
    『私は弟なんだ』と・・・。
    初めに書いたように思っていたときの感情は『自分が兄』なのです。
    自分が兄の時は自分勝手で謙虚さや優しさがなく、自分を正当化しているのに気がつきました。
    でも私はそんなに偉いものでしょうか?強い人間でしょうか?正しいでしょうか?   
    『NO!』 です。
    よく読むと、兄に向かって父は最後に、「子よ、お前はいつも私と一緒にいる。
    私の全てはお前のものだ」と言われています。いつもそばにあり全てが満ち足りていたために、
    兄は感謝を忘れ、謙遜を忘れ、大切な『愛』をなくしてしまっていたのだと思います。
    兄が父を信頼し、父のゆるぎない愛を確信していたら、例えば「お父さん、私の友と祝宴をするために子やぎを下さいませんか?」と聞けたでしょう。お父さんはきっと
    「あぁいいとも!太った子牛を使いなさい。」と言って下さったに違いありません。
    兄弟でありながら、どこかで野垂れ死んでいたかもしれない弟が生きて戻って来たのを
    喜ぶどころか、逆に憎しみさえ感じていた兄を、父である神様はきっと
    心から悲しんでいたに違いありません。
     私は、特別問題もなく普通に過ごせている時は、日々の祈りもサ~ッと
    『心ここにあらず・・・』で祈っていることが多くあります。(神様ごめんなさい)
    そして心配事や苦しいことがあるときばかり心から祈っていることに気付く時
    『何て自分勝手なんだろう』と落ち込みます。でも神様はそんな私でも、
    毎日がごめんなさいでも、『いつもそばにいるよ。おまえが何度失敗を繰り返しても、
    その度改心するならいつでも両手を広げて待っているよ』と言って下さっていると確信しています。そして神様の愛で又明日からの元気や勇気が出てくるのです。

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